Minecraft #5 The End

2021.6.4

 エンドポータルに、不足分のエンダーアイを置いた。すると、宇宙のような果てしない広さが目の前に広がる。ここは一体どこに繋がるゲートなんだろう。久しぶりに畏怖の念を覚えた。しかし、好奇心の方が勝った。果てしない広さに入って、果ての土を踏んで気づく、エンドから通常世界に戻る術がないことに。通常世界に戻る方法は、エンダードラゴンを倒すか、自分が死ぬかの2択しかないのだ。
 人間は愚かなもので、エンドでどう振る舞うかの“正解“を探そうとしてしまう。スマホで見ると、「エンドですぐエンダードラゴンと再戦できるように準備しましょう」と、ご丁寧にチェスト、作業台、ベッドの並んだ画像が付されていた。そこで、私は手持ちからエンダーチェスト、作業台、ベッド、普通のチェストを置いた。さて、寝ようとしてベッドを使うと、全てが大爆発した。な....何を言ってるのかわからねーと思うが、俺も何が起きたのか、わからなかった.....どうやら、エンドでベッドを使うと爆発するらしい。これを読んでいる人には、ぜひ気をつけて欲しい。“正解”に惑わされてはいけない。ニーチェも、自身を悩ませたものは他でもない、彼自身の“理想主義“だったということを認めている。理想は多くの人を狂わせる。本来的に、マインクラフトだって現実の生だって自由のはずなのに、誰かが「こうあれ」「こうあるべき」と言い出すせいで、その自由さは雲隠れしてしまう。いつしか「こうでなければダメだ」になり、あらゆる可能性は不問にされ、それ以降の長い期間、分厚い雲が空を覆い尽くす。無論、不要な可能性と言うものもある。殺人の正当化可能性は、今のところ分厚い雲どころか、石棺で覆い被せるべきことだと考えらえる。しかしどうだろう、そうでもないのではないだろうか。国家による殺人の正当化となると、意見が割れるのではないだろうか。事態は比喩よりもずっと複雑だ。さらに申し付けるとすれば、君が生まれるよりずっと前からある国家でさえ、君の人生の自由さを制限している。
 まあいい、さぁ、全身ダイヤ装備、ダイヤの剣、ツルハシ、ポーション、すべて失った。もうこれで辞めてしまおうかと思った。でも、もう指の先にマインクラフトの頂上が触れている。諦めるわけにはいかないのだ。
 私はすぐさま、この世界にスポーンしてからまもない頃に作った地下坑道に向かい、ブランチマイニングを進めた。ダイヤは40個ほど集まった。もしかしたら、私はとっくのとうにこのゲームをクリアするのに必要なスキルを一通り得ていて、それに私が気づいていないだけだったのではないだろうか?これもまた、理想主義がなした悪業ではないだろうか?
 装備を新たに整えて、再びエンドに入る。今度は、柱に登るための足場もたくさん持ってきた。幸い、エンダーチェストは壊れていない。今度こそエンダードラゴンを倒してみせる。

 ・・・黒曜石の柱の上にあるクリスタルまで足場を組んで登って壊す。黒曜石の柱の上にあるクリスタルまで足場を組んで登って壊す。黒曜石の柱の上にあるクリスタルまで足場を組んで登って壊す。黒曜石の柱の上にあるクリスタルまで足場を組んで登って壊す。途中、エンダーマンがすごく憎くなった。目を合わせただけで襲ってくるなんて、喧嘩番長3じゃないんだから。君ら出るゲーム間違えてるよ。
 ついでに、愛飲していた「再生のポーション」と「スピードのポーション」そして「落下軽減のポーション」はもう尽きた。その空き瓶にはエンダードラゴンのいぶきを入れた。もうボロボロになった。心も折れそうだった。なぜなら、クリスタルはとても壊しづらいし、足場もエンダードラゴンにしばしば破壊されて落下した。やっぱり、自分には無理だったんじゃないかと思い始めていた。

 しばらくして、戦況は一変した。エンドクリスタルをすべて破壊してから、エンダードラゴンの体力は回復しなくなったのだ。遠くにいるときは、かつてFPSで散々鍛えたエイム力を駆使してドラゴンに矢の嵐を浴びせ、近づけばストリートファイターで鍛えた己の拳と、三國無双で鍛えた剣捌きで滅多打ちにした。すっかり優位に立った気でいた私だが、唯一怖かったのは、エンダードラゴンに近づくと、聞いたこともないような轟音が鳴ることだった。エンダードラゴンの咆哮は、それが“果て“でなければ世界中に聞こえるのではないかと思うような、強烈な自己主張だった。

 そしてついに、私はエンダードラゴンを下した。マインクラフトの"頂上"は、それほど深くない"地下"から繋がる、果てしない宇宙の隅にあった。そこがどこなのかはわからない。ただ、果てのない宇宙にある果てなんて形容矛盾が気にならなくなるくらい、“果て“という形容が当てはまる不思議な場所だった。

 この世を包み込むような大爆発を起こしたエンダードラゴンから、煌めく緑色のパーティクルが飛び散った。この世界でこれは、“経験値“と呼ばれ、エンチャントに必要なものだ。The Endの中で、プレイヤーが織りなすそれぞれの物語の最終目標であるエンダードラゴンから、これからのために有用な“経験値“が大量に飛び出すことは、この旅に終わりがないことを示唆しているよう思えた。

 こうして、マインクラフトと出会って7年間の月日を経て、自力でエンディングを見ることができた。

 統合版(switch)のエンディングは英語で、とてもスクロールが早くて目が追いつかなかった。しかし、それでもいくつかは読めた。初めて自力でエンドロールを見た時に、たとえそれがすべて読めなかったとしても、その時に読み取れたことを大事にしたい。中でも、かなり印象的だったのは「それでもプレイヤーは諦めなかった」という言葉だった。そう、私は諦めなかった。そしてそれは、理想主義を捨てたからだった。もし、高山に登りたくとも、一度目でうまく登れなくて諦めたのでは、永遠に登れない。また「プレイヤーは長い夢(人生)のうちで短い夢(マインクラフト)を見た(大意)」というのも印象に残った。これは遠い昔に、マインクラフトのシステムに敗北した時に見たエンディングから好きな表現だった。
 しみじみとクリアの余韻に浸って間も無く、スタッフロール中に、スマホを使ってエンディングのことを調べて全文をゆっくりと読んでみた。そこには紛れもなく、“情報の哲学”が展開され、我々が母体から生まれ、一人の人間として生きることへ、意識をうまく誘導する仕掛けが展開されていた。他のサイトでは、エンディングの“考察・解釈“と称して、「スピノザの汎神論」だのなんだのと、紋切り型の説明に、それぞれがとってつけたような、かしこぶった割には板についていない考察を披瀝するものが目立っていた。少しみない間に、ただエンディングを淡々と載せるサイトよりも、「私こそがマインクラフトのエンディングを説明できる」といろめき立たせることによって人に注目されたいサイトの方が多くなっていた。
 エンディングで採用されている“エンドポエム“なるものは、ジュリアン・ゴフという、大学で英語と哲学を学んだ作家によって書かれた。確かにこの背景を踏まえれば、「スピノザの汎神論」などと宣いたくなるかも知れない。しかし、そうした「汎神論」とかの概念語を使うことで、どのように思考が節約され、事態が明晰にされているのだろうか。むしろ、そこで「汎神論」と述べられていないことについて、勝手に複雑な言葉を当てはめているだけではないだろうか。それは、それっぽいものをパッチワークして、何か個人的な、知的な“理想主義“を達成しようとしているだけではないだろうか?きちんとエンディングを(邦訳だろうと)読んでいたならば、エンドポエムの語り手が「汎神論」的であるなどという考え方が間違いであるというのはすぐ分かるはずだ。そもそも、“神”などという名詞や概念に意味が無いことを語り手は主張している。誤読甚だしく、思慮浅いことこの上ない。なぜ、この現代の作品において、スピノザの時代において彼が考えた神などを持ち込む必要があるのだろうか???なぜ、そのようなアナクロニズムに無批判でいられるのか??
 まぁいい。批評家や、考察者を非難しても何にもならない。ただ言いたいのは、“作品“のもつ独自性を、既存の概念に押し込めることで見失わせるようなことをするのは、作品に失礼ではないかということだ。何かを“説明“することは、明らかに何かを“記述“することとは異なって、背景に何かしらの理論語を必要とするのだ(こういう、理論内的な、や、理論外的な、といった区別が正しいかどうかについても疑問だが、ここではこの論点を指摘するにとどめるとしよう)。その理論語は作品内には存在しない。そうしたもので作品をジャッジするのは、作品の内実を損なう...。ああ。もういい。キリがない。
 とにかく、私はマインクラフトという短い夢からは醒めた。これからは、私は人生という長い夢を過ごす。その夢の中での私は、私の先代から続く、果てしなく“小さい情報“の継承の結果であり、有限の肉体を持つ。この有限の肉体は、まず母体の中で、世界中の土・空気・空の原子が一つの生物として形作られたものが巡ってきて形成される。もっと言い方を変えよう。父は食物を食べる、その食物は、全ての原子が循環して成立する相互作用の結果である。また母も食物を食べる、その食物もまた、世界の循環の一つの帰結である。その帰結がさらに産んだ帰結が、母体で育つ私の有限の体である。そして、帰結だと思われるものは帰結ではなく、また何かを生み出す。果てのない宇宙の果て、というのは、帰結のないものの帰結、見かけ上、偶然的なものの、必然的なもの。まさに、私のこの言葉遣いは、人間が用いる物事の区切りの恣意性をよく現しているのではないだろうか。
 この有限な体は、いずれ朽ち果て、煙や、もしくは骨となって世界に拡散する。その間の短い数十年間において、さらに短い夢を見た経験は、こうして、情報でできた世界の果てのような寂しい場所に書きつけられ、(おそらく)長い間残る。あるいは、長い夢で、また果てしなく小さい情報が、新たな有限な肉体を得て、継承されるかも知れない。この“果て”の咆哮は、場所が異なれば世界中に響き渡る。人間は情報を食べて生きている。これは単に詩的であるだけではなく、事実である。食物は情報量を増加させる(これについて詳しく書くことは、ここではしない)。そして、人間はそれ自身情報である。情報はマインクラフトを作る。マインクラフトもまた情報である。情報は取るに足らないこともある。しかし情報によって死に至ることもある。情報は、世界に散らばる原子であり、常にやり取りされる。情報は全てを司る。そしてここに、これまで人間が考えてきたような神などいない。

 

 では、それを“情報“と認識しているのは誰か?この世界が“この世界“であると認識しているのは誰か?

 

  私は喜んで現実世界のエンダードラゴンとなろう。果てを守り、勇気あるものに挑まれ、その身朽ち果てるときには、“新しいプレイヤー”に多大なる経験値を与えて継承し、新たな次元へと誘う。恐ろしくも頼もしく、そして寂しい怪物に。そのためだけに、長い夢を見よう。

 

 

番犬Jotaroの日記

 野郎....。早く来やがれ。

 

地下室の犬Svenの日記

 ご主人様が、竜の息吹を持って帰ってきた!!!ついに、地面に吹き付けるだけでずっと効果の持続するポーションが作れるね!!!!!
 ずっとみてみたかったから、楽しみ!!

 

賢い犬Einaudiの日記

 なんてことだ。ご主人様の経験値が50を超えている...!!!エンチャントし放題じゃないか。思わず顔を舐めてしまった。なんかエンダーマンくさいな。