Minecraft #1

 Minecraftをプレイしている間、「誰かに言いたい」という感情を抱いていることに気がついた。現実には、見所を周りの人間に撒き散らすだけになっているのだが、それ以上に、自分は自分がMinecraftの中の生を共有したいというのが本音なのだ。
 現実の人生の私とMinecraftの中の“私“は当然ながら異なるものだ。しかし、明らかに何かが同一である。それは、私の精神運動の反映である。私の精神活動は、活動の場所を選ばない。それは、現実の世界としてこのブログを書くように、或いは、論文を書くように。それと同じように、私の精神を反映するメディアとして、Minecraftはある。
 どうせ“現実“にとって無為な時間を過ごすならば、このように“現実“の世界に爪痕を残して、何かを思えるような手掛かりにできればと思う。The Netherと、基本世界の関係のように、Minecraftは現実世界と関係しうる。
 Minecraftの結末はもう知っている。Creative ModeでEnd Gateを作り、Ender Dragonを倒した。しかし、自分の力ではない。それは、MinecraftのSystemがもつ権限を最大限に使って見た“必然的な結末“でしかなく、MinecraftがSurvival Modeでプレイヤーに課している制限を取り払ったゆえに見られたものだ。
 もちろん、このような結末の知り方も一つとしてあるだろう。しかしそれは、私の力の及ぼした終焉ではなく、Systemの及ぼした終焉だ。これでは、私がMinecraftに勝利したとは言えない。Minecraftがプレイヤーを唆し、Systemに頼らせることで得た、Minecraftの勝利である。実際は、勝利とか敗北とかではないのだが、取り急ぎ、私とMinecraftの関係をこう示しておこう。
 だから、この日記は、Minecraftに私が勝つまでの日記である。“必然的な結末“ではなく、“偶然的な結末”が見たい。

 

2021.5.21

 今日はThe Netherにおいて砦を攻略した。透明のポーションと暗視のポーションのおかげで、全く攻撃を喰らわずに進めることができるようになった。暗視をNetherで使うと、他の砦が探しやすくなるかもしれないが、もうブレイズロッドもネザーウォートも手に入れているから、わざわざNetherを歩く必要はない気もしてくる。
 次の課題は金集め、エンダーアイ集め、古代のガレキ集めといったところか。エンダードラゴンはそう遠くない。エンダーパールにブレイズパウダーを合成して、エンドポータルさえ見つければ戦いはできる。エリトラをゲットすれば、サバイバルモードでも空を飛ぶことができるから、それを楽しむことが最終目標だろうか。或いは、エンディングを見たらスッパリとやめるべきだろうか。
 最近はヒカキンを聴きながらプレイしている。彼が他人の載せた動画から、レッドストーンを用いた自動丸石製造機を作っていたのを見て、機構を0から作ることができなくても、受け売りで機構を転用して用いることに罪悪感や悔しさを覚えない人について考えてしまった。私は絶対に0から作れない装置を使うことができない。自分で考えた機構で作った上で、他人の作ったものを見てブラッシュアップするのならば良いが、真似してそれっきりというのはどうも気持ち悪い。
 そしてまた、丸石製造機など必要だと思ったことがないので、発明には渇望が必要であることが思い出された。必要は発明の母とはよく言ったものだ(父で良いのではないか、いや、親で良いのではないか。工業機械の世界でも、ある工作機械が、その機械が製造される際に用いられた要素以上の精度では工作することができないことを意味する“母性原理”という言葉がある。女性を“産む性”として強調しすぎることの問題点を考慮すれば、これらの用語は直ちに改名されるべきだ)。

 

地下の犬Svenの日記

 昨日の昼前にNetherに行って、それからポーションを夜遅くに作っていたご主人様は、今日もNetherに行った。
 いつものように調合台の前で待っていたら、誰もいないのにドアが空いたので吠えた。
 Netherのひどい臭いがしてたけど、その臭いに包まれる匂いはご主人様だった。透明化のポーションを飲んだご主人様だったのだ。
 ご主人様はチェストを漁って、空になったポーションの瓶に水を汲んできた。
 暗視のポーションも飲んでいたのに忘れてたみたいで、暗闇のはずのキノコの部屋が明るいのに驚いていた。